3.11 震災日誌

はじめに

 

今回の東日本大震災に被災された皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 

私は、震災の当日、仙台市内で地震に遭いました。

幸い何とか無事でしたが、それでもあの日、あの瞬間に「死」が脳裏をよぎりました。 多くの被災者の方も同じ想いをされたろうと思います。

 

当初、この震災日記は、いたずらに被災者の心の傷を広げてしまうのではないか、

多くを失った悲しみをまた思い出させてしまうだけなのではないか、と危惧し、躊躇しました。もともとが、体験の記憶を留めておく、私的な日記として書き記した物です。  と同時に、地震から2週間経った今、自分にできることは何かを考えたとき、同じ被災者の1人として震災の体験を後世に残すことが、生き延びた者の義務であるとも考え、掲載しようと思いました。

 

またこれと並行して、被災者自らが復興のノロシを上げる「震災復興プロジェクト」を立ち上げました。これらが、今回の震災を風化させず、少しでも震災復興を促すきっかけの1つになれば幸いです。

そしてそれが、私なりの「ペイ・フォワード」だと信じています。

 

 

3月11日(金)  震災当日

 

午後2時46分、その時わたしは、9階のオフィスビルにいた。男子トイレから部屋に戻る途中だった。地震だ。大きくグラッときた。

宮城県沖地震が近年中に高い確率でやってくる、と脅されていた宮城県民だから、多少の揺れには動じないつもりだが、今のは大きい。 

 

フロア中央を走る廊下の、奥から4番目にあるオフィスを見ると、妻がしゃがみこんで少し開けた扉口からこっちを見ている。

切なそうな、不安な目。顔。「こっちへ!」部屋から数歩のところにある、少しでも柱や壁の多い狭い給湯室へ。揺れが収まるまで待つ。

 

揺れが長い。給湯室の流し台の引き出しが飛び出す。女子トイレの方が安全か。揺れの弱い頃を見計らって移動。ダメだ、Pタイルが滑ってそこに立ってられない。また給湯室に戻る。2人しゃがみ込む。妻の頭を覆うように抱きかかえた。

バキッとか、メリメリっという鈍い音。この揺れにこの古いビルは保つのか?妻は、亡き父に「助けて」と祈っている。

すぐ向かいの柱や壁がメキメキ、ミシミシと悲鳴を上げてこらえている・・。

 

どのくらい経っただろうか。揺れが少し収まったように感じた。いまだ、身体を強張らせてしゃがみこんでいる妻を立たせて、階段に向かう。給湯室からすぐの非常扉が歪んで開かない。反対側の階段に回って下りる。しまった、ケータイがない。そうだ、女子トイレだ!あそこで落としたに違いない。いったん引き返す。が、歪んだ防災扉がどうしても開かない。もう一度反対側に回って、いったん下のフロアに下り、そこから上がってたどり着いた。妻もずっと一緒だ。あった!ケータイを拾って急いで階段を下りようとする。そうだ、コートがない。

 

このままでは帰れない。妻の財布の入ったバッグも、ロッカーに入ったままだ。部屋に取りに戻らなくては!。9Fフロアをそーっと歩く。オフィスのドアが開かない。力を込めて押して少し隙間を作る。受付のスチール製のカウンターが倒れてつっかえてなかなか開かない。無理矢理押して体を入れた。

 

床に落ちた受付け用のチャイムが鳴り続ける。花瓶、仕切りのフェンスが倒れて行く手を阻む。めちゃくちゃだ。乗り越えた。新しく買ったパソコンが画面を床に向けてデスクから落下している。デスクの上にあった書類が散乱している。書棚、ラック、ロッカー、高さのあるモノはほとんど倒れて、中のものを吐き出している。その上を書類が覆っている。

 

部屋の奥のロッカーまでモノを踏越えて進む。ロッカーは倒れ、スチールのドアが4枚とも外れて散らかっている。ドアの内側に付いていた鏡は、粉々だ。中のコートを取り出す。が、妻のバッグが見当たらない。あった。ロッカーと書庫の下敷きだ。ロッカーのカドがバッグに乗っかっている。

ロッカーを持ち上げる。下の書類やなにやらで、足をとられて踏ん張れない。取れた。妻が私のバッグとコートとマフラーを持った。

 

よし、もう引き返そう。余震がその間も何度もビルを襲う。エレベーター前を過ぎた。そうだ、一番奥の床屋さんは?いた、一緒に下に降りましょう!床屋さんは上がどうとか言った気がした。

 

8階・7階、途中階段の壁が剥がれ落ちている。ヒビも入っている。6階・5階、歩くたびにジャリジャリと音がする。

4階・3階、そういえば最近妻と「一度9階まで、階段の上り下りを訓練しとかなきゃね」と冗談半分に話していたことを思い出す。まさかこんなに早く現実になるとは・・。ここは何階だ?階段の踊り場の表示が暗くて読めない。下が明るくなった。やっと1階にたどり着いた。

 

1階フロアには、もう大勢の人がいた。

奇跡的に、ガラス製の自動ドアは破損を免れている。1Fロビーはもちろん、ビル前の歩道や車道の中央分離帯にも人、人、人。

 

まだ陽が高く、明るい日差しのためか、1階に着いたら思ったより悲壮感がない。

隣のビルのブライダルハウスから、花嫁衣裳を着て、頭に頭巾がわりの布を被った女性が、係員に付き添われて足早に歩道を行き過ぎた。少しまた揺れた。余震が怖い。周囲の人たちもすぐにはそこを動かない。しばらく1階にいた。様子をみる。普段は挨拶だけの、同じフロアの顔見知りと情報交換する。「大丈夫でしたか?」

 

「もう、ぐちゃぐちゃですよ!」その間にも余震だ。妻が、女性と話している。隣のオフィスの社員か。災害時、一人で留守番していたらしい。

地震に襲われたとき、怖くてデスクの下に隠れていたらしい。怖くて声も出なかったそうだ。なみだ目で妻と会話している。普段は無愛想な女性だが、その話を聞いたら彼女に同情した。

 

実家や、東京の息子に連絡をと思うが、ケータイがつながらない。

今日の仕事はもう無理だ。

14:58分、宇都宮にいる妹から安否のメールがきた。続いて、東京の息子からのメールだ。返信しようと文字を打ち込む手に力がない。

返信もだめだ。メールが送れない。寒い。ケータイ画面から顔を上げて外を見た。さっきまで晴天だったのに、雪が降り出した。

 

帰ろう!いや、まだだ。部屋のドアの鍵を閉めていなかった。妻にそのことを告げ、返事を待たずに1階警備室の警備員と一緒に9階へ戻る。

途中、2~3人と階段ですれ違う。9階に着いた。一番奥から声がする。女性の声だ。2人いた。危ないですから、下に降りてください、と警備員。

部屋の鍵をかける前に傘立てから、ビニール傘を1本抜いて鍵を掛けた。

 

自宅は、長町南だ。地下鉄だと、仙台駅から6駅目だ。ここから5kmくらいか。南に向かって歩き出す。

地震の爪あとを見ながらの帰宅となった。地下鉄やJRは、到底無理だろう。どうやら、バスは動いているらしい。まずはターミナルの仙台駅を目指して歩き出す。

 

隣のブライダルの入ったビルのタイルがずいぶん落下している。見上げると、外壁の茶色いタイルがところどころ剥がれている。

そういえば昨日はウチのビルの外窓の清掃日だったっけ。もし、清掃日が今日だったら、と考えてぞっとした。

 

最初の交差点を渡った。ゾロゾロと、人の波に続いて歩く。さくら野百貨店を左折して、駅へと向かう。歩道に立ち入り禁止の黄色いテープで人の流れを本来の動線と関係なく制限している。人の波がひょうたんの首のところで大渋滞だ。歩道に、ブロックのような落下物。結構大きい。上を見ると、幅5~6m、高さ2~3mくらいの外壁が剥がれた痕が痛々しく口を空けている。

 

バスプールに行こうとするが、ペデストリアンデッキに上がれない。封鎖中だ。あっちの上り口もだめだ。仕方ない、歩いて帰ろう。

「途中でタクシーでも拾えれば・・」と妻には言ったが、多分無理だろう。

 

2~3度、自宅から仙台の都心まで自転車で通ったことがある。新緑や初夏の気候の良いときだ。爽快だったが、自転車でも2~30分近く掛かる。雪の中、しかも徒歩だ。 暗くなるまでに着くといいが。

 

さっきは気づかなかったが、交差点の信号も消えている。停電だ。交差点での人溜りで、ヘルメットを被った集団を時折見かける。中には、銀色の非常用バッグを背負っている女性もいる。こっちは、親子でお揃いだ。宮城県沖地震が近じか来ると聞いて、普段から準備していた人たちだ。ヘルメットの社名やロゴマークが誇らしい。

 

外はずいぶん薄暗くなった。足元は、歩道が隆起していたり、歩道沿いのオフィスビルのガラスが割れて落ちていたりする。

やっと愛宕大橋だ。橋を渡る。妻は、橋を渡りきるまで余震が来ないで、と言った。渡りきった。道路に沿って大きく左手に曲がる。

閉店してずいぶん空き家のままの、家電量販店だった建物が見えた。パトカーが回転灯だけゆっくり回して停まっている。

 

量販店あとを見ると、歩道には割れたショウーウインドーの分厚いガラス片が飛び散っている。そして2階には、窓枠にへばり付いて牙を剥きながら、扇のように左右にぶらぶらしている、大きなとがったガラスが風に揺れていた。

 

そこを迂回してやり過ごすと、大きなお寺だ。改修だ。

道路に面した門に、何本もの雨傘が並んでいた。「よろしければ、お使いください。」という内容の文字が書かれていた。隣の墓地が見えてきた。大丈夫だったのか?ふと見ると、墓石の倒壊など思ったより被害は少ないように見えた。普段は無宗教の自分が、このときは神・仏の強さを垣間見た気がした。

 

武道館を過ぎ、高校の校舎の角を曲がる。そういえば地震の時刻は、ちょうど部活動のころのはず。生徒は無事だったろうか?

 

小学校を過ぎ、近所のスーパーを過ぎた。 もう少しだ。

やっと帰宅した。 時計は、5時半を回っていた。 同じマンションの住人が暗がりのなか、マンションの入口を懐中電灯で照らしてくれた。

「部屋にすぐ入っちゃダメよ、中はぐちゃぐちゃで割れた破片やなんかで一杯だから・・・」妻の友人がアドバイスしてくれた。お礼もそこそこに自宅の扉を開けた。

 

自宅は、マンションの3階だ。もちろんエレベーターは止まっている。

非常階段で上る。着いた。ドアを開けた。

 

廊下は通れた。オフィスに比べ、階が低いせいか思ったほどひどくはない。 問題は、リビングだ。リビングの食器棚の中はぐちゃぐちゃだった。

 

戸棚のガラスが割れなかったのがせめてもの救いだった。妻がこれまですこしずつ集めてきたウェッジウッドやジノリの食器や陶器の人形達はかなり負傷していた。

キッチンの食器棚は?こちらは普段使いの食器たちだ。こっちのグラスやお皿はほとんど無事だ。リビングの温室育ちのブランド品に比べてなんと生命力の高いことよ。

 

和室の本棚が倒れて、中の本や書類をほとんど吐き出している。

テレビは?奇跡的に倒れず無事だった。だが、停電で映るはずもない。

ひとしきり被害の状況を確かめると、すぐには片付ける気にはなれず、リビングの中央に二人で座った。

そうだ、ラジオだ。普段は、妻がお気に入りの福山の番組や、僕がアヴァンティを聞くのに使っているのだ。

 

暗がりの中、チューニングとラジオのボリュームに合わせて多彩な光を放つ、四角い箱をはさんで座っていた。ラジオからは、耳を疑うような惨状の

ニュースが流れていた。

これが、千年に一度といわれる大惨事の幕開けだった。そして、それを映像を通して僕らが知るのは、ずっとあとになってからだった。

ラジオのニュースを、毛布やコートにくるまり聞きながら、いろんな疲れに負けていつの間にか眠っていた。